下阪本外太間町大弁財天縁起

江州志賀郡戸津濵太間辨財天女縁起

乙未 六月(1655年)

抑々辨財天女御鎮座の由来を尋ね奉るに、往昔傳教大師竹生島へ参詣ましまして、法財二世の供養事終わり、すでに帰船の砌(みぎり)、浪風荒く湖上危うく思召し行原を見給へば、白蛇忽然(こつぜん)として船の中にあり、天女現影し擁護し給うにやと喜び給ひて、船頭に力を添へ纜(ともづな)を解けば浪平に風静まりて程なく此の戸津濵に着き給ふ。

 大師感嘆のあまり白蛇に向かひて曰、誠に天女の利益かく掲焉(けちえん)しければ、誰か参詣渇仰の思いなからんや、しかれども海路風波の難を憂て諸人稀なり、願わくは天女此処に止まりて、普有情(あまねくうじょう)を利益し、諸人の願いを満たし給へとあれば、白蛇聞得る色見えて大師と供に此地に上がり給ふ、里人是を聞きて喜び崇め奉り、程なく一宇の堂を建立す、大師自ら天女の尊像、宇賀神像彫刻ましまして、安置し給いぬ。 ・・・      <後略>

外太間町に鎮座します「大弁財天」の云われについて紐解いてみますと、「別当代文書」(叡山文庫保管)、ならびに、下阪本学区「おおつ歩き隊」への説明資料(平成10年6月)、その他地域に残されている口伝等々から以下のように垣間見えます。

 琵琶湖竹生島の弁財天は広島の厳島弁財天、神奈川の江の島弁財天とともに日本の三大弁財天とされ、水難守護はもとより、財運や技芸学業・縁結び・武運長久・国家鎮護等に霊験あらたかな守護神として厚く信奉されています。ところで、その昔、伝教大師最澄が比叡山座主として竹生島参詣の帰途、琵琶湖特有の荒天荒波(比良八荒か)に見舞われ遭難やむを得ずの状況に陥ったものの、天運等々さまざまな幸運などに導かれ下阪本の戸津浜に辿り着き一命を得られたそうです。

里人達は天台開祖の無事の帰還に感涙し崇め奉るとともに、その後竹生島からの灌頂(かんじょう)をもって戸津浜に一宇の祠を建立し(延暦7年頃か)、水辺の安全を広く願って厚く礼拝するようになったものと推量されます。

琵琶湖で毎年のように発生する水難事故は古(いにしえ)の昔より様々な犠牲者を伴い、常時、舟運や漁業に対する安全意識や信仰は何物にも代えられないものと考えられてきました。当時の弁財天はお堂の東側すぐ際まで湖水に隣接し、湖上を行き交う舟人たちからも大銀杏(おおいちょう)と共に舟運のよき目印ともなったことから、里人だけでなく広く信奉されたと推察できます。

この本殿脇の「大銀杏」は旧来二本の大木として立ち並び長年にわたって燈台の役割をも果たしていたそうです。現在では1本だけとなりましたが、大津市の保護樹木にも指定され境内では子供たちの遊び場となっています。

以上のことから、下阪本の街や地域住民を御守りいただく鎮守の守り神「大弁財天」として、皆様方のご協力のもと、今後も誠心誠意大切にお護りし続けたいと考えています。   <厳島神社、大弁財天 氏子一同>

厳島神社境内
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